2017-06

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Re:逃源郷 ver.2

Re:逃源郷 ver.2
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汲みきれなかった、多くの言葉たちへの、多くの哀惜‥‥


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シネマヴェーラ特集映画/従属する批評の「批評」

層の厚い、まるで季節外れの入道雲であるかのような巨大な雲の群々が、遠く東の空に、大地を覆い隠すかの如くに猛々しい様で立ちこめていた。


                           ◇


渋谷のシネマヴェーラで映画を観賞してきた。
特集の最終日で休日だったせいか、思いの外会場は混雑していた。

一本目はクロード・シャブロルの『女鹿』という映画。
クリーム色を基調とした(主演女優2人の化粧のせいか)、非常に艶かしい作品だった。
フランス映画によくある、親の財産を食って生活する享楽主義者がこの作品にも登場する。
興じるカードゲーム、お茶のごとく昼間から飲み交わされるワイン、恋人たちの庭先での囁き合い‥‥。
本当に、彼らフランス人の、そうした労働を一切排した優雅な暮らしぶりには感嘆してしまう。
テーマはおそらく、処女の悲劇と錯綜(予想を裏切られたエンディングから判断するに、一概に悲劇とはいえないかもしれないが)。
冒頭の、ルーヴル美術館とともに映し出されるポン・デ・ザールの光景と、
南仏の避暑地サン・トロペの青い海と丘陵(まるで熱海と瀬戸内海のそれのようだ)が美しく、激しく旅行欲を駆り立てられる。

二本目はゴダールの『はなればなれに』。
アンナ・カリーナとの蜜月時代に作られた、わりと初期の頃の作品。
一見すると、ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のよう(というよりジャームッシュがこの映画に影響されている?)。
つい先日レンタルで同じくゴダールの『女と男のいる舗道』を観たばかりで、この映画も“ゴダールらしい”実験性が散りばめられた作品だった。
音楽の中断、カットのつなぎ目間の意図的な未編集、監督自身の声によるナレーション‥。
そして何よりも衝撃的だったのが、談話途中の「一分間の沈黙」シーン。
映画とその映画を観ている観客との共犯関係とはまさにこのことで、
アンナ・カリーナの呼び声とともに「本当に」始まってしまうこの一分間の沈黙は、
観ていたのに観られる、そういう立場の反転とともに、映画館での観客としてのモラルも試されるゴダールの奇妙な仕掛けとしての一分間だった。
ルーヴル美術館でのゲリラ撮影丸出しの疾走も、3人とも本当に楽しそうだ(アンナ・カリーナのあの笑顔は、誰が見ても明らかに演技ではなく自然なものだろう)。
『気狂いピエロ』への続編も示唆される最終シーンも、中々ファンにとってはニヤリとさせられる場面だったのではないかと思われる。

2本立ての映画は始めてだったが、難なく退屈することなく観れてよかった。
アンゲロプロスの映画にしなくてよかった(観たら絶対に寝ていただろう)。
それにしても、こんな希少な映画館がなぜラブホテル街のど真ん中に建てられているのかが気になる。
終わったあとは、そのまま渋谷のオアシスbunkamuraに立ち寄り、地下のアート専門の本屋で立ち読みして、そのまま帰宅した。


                           ◇


批評とは、殊に芸術を分野に扱う文芸批評とは一体何であろうか。清水徹は、『どこにもない都市どこにもない書物』の中で、「批評とは、他人をだしにしておのれを語ることだ」、また「批評とは文学を素材とする文学にほかならない」と指摘していて、なるほど文学や映画および芸術一般の批評はそれで定義できようが、ではその批評を行った批評家をさらに批評するとは、果たしてそれは批評といえるのだろうか。
そもそも文学にとって、映画にとって、または芸術一般にとっての批評の役割とは一体どこにあるのだろう。素材がなくては、自分本来では生きてはいけない批評、「彼は~である」、そう3人称でしか語ることを許されない、常に屋上の窓から道路下の通行人の様子を観察している孤独な客観視家。それでいてエクリチュールは、他人のところに預けているようでいて、じつは自分で所有している、言葉の経験場所は、あくまで他者のところにある、だから創作とはいえない、小説や散文やエッセイ、詩とも区別される、しかし実のところエクリチュールの影の操作人は当の本人で、自分の血や肉となる「詩」を文体に注ぎ込むことをも許される、不思議な特権者‥‥。
清水徹は、バルトという批評家をさらに「批評」している。ソンタグもまたベンヤミンという批評家を「批評」している。顔が見えないようでいて、実はその節々に書き手の「顔」が覗き見える、書き手の主人はバルトであり、ベンヤミンといった対象となる他者、それに従属している批評家、しかし実の権力を握ってエクリチュールを操作しているのは‥‥。「われわれ」なのか、「彼/彼女」なのか、はたまた「わたし」なのか‥‥。主語の種類によって、従属させられている書き手である「私」。主体によって、変動させられ、変化を求められる常に不在の「私」。
書き言葉が反乱していて、それぞれがみな、交わることなく「文学空間」という架空の共同体のなかで、のた打ち回っている。

テーマ:ヨーロッパ映画 - ジャンル:映画

緩慢とした、春にすら乗り遅れてゆく

沈丁花の甘い香りが、ようやく訪れる春の匂いを街中に散らしている。


                           ◇

昨日は仕事終わりに、時間があったので吉祥寺へ買い物に出かけた。
自宅のアパートから、自転車で直線およそ10分の距離。
東京で暮らしたい願い多く集まるこの街から、目と鼻の先にある所に住んでいるということが何か誇らしい。
僻地の中都市、吉祥寺。
分け隔てなく揃う百貨店、家電量販店、雑貨屋にスーパー、商店街の数々‥‥。
可もなく不可もなく、当たり障りのない、それでいてレベルの底が浅いも多様な欲望を、ブランドという名の元に満たしてくれる、中流と上流のあいだを漂う街、吉祥寺。
一つの現代の象徴、または忘れ去られる運命を逃れることのできない都市遺産、悲劇としての街吉祥寺が、忘却以前の地点で立ち止まっていた。


                           ◇


今日は今日とて仕事が休みだったので、久しぶりに神田は神保町へ出かけてきた。
目的は、前から一度訪ねてみたかった、多くの作家や出版人が集うらしいラドリオという老舗の喫茶店(城戸朱理さんのブログにも書かれているのを読んで、一度行ってみたかった)。
書泉グランテ裏の、ひっそりとした細い路地に、それはあった。
しかし、何かこうチェーン展開されている多くの喫茶店とは違った敷居の高さ(決して入りにくいというわけではないのだが)が邪魔をして、入り口の扉を跨ぐ勇気を奮うことができず(そういえば以前も、雑誌で見つけた珈琲舎蔵という喫茶店に行きたかったが、敷居の高さに恐れをなして直前で入らなかった)、断念。
ここまできて、いつものドトールやスタバ、ベローチェに行くのも癪だったので、神保町ナビで事前に調べておいた、一見さんでも比較的入店しやすい印象を受けた紅茶の専門茶店に、最終的に腰を落ち着けた。


給料日後で、比較的手元の現金に余裕があったので、今日は多めに古書を購入。
神保町の地を踏むたびに、決まって足を運ぶ小宮山書店で今回はまとめ買い。
文庫本コーナーで、ミシェル・ビュトールの『心変わり』が置いてあったので即購入。ついでにカルヴィーノの『パロマー』とナボコフの『ロリータ』も同時購入。
そしてなんとサルトルの『嘔吐』が、装丁も綺麗な状態で、しかも新訳版(さらに値段も半額近い!)で売られていたので、もちろん即購入。
ぜひ原本として部屋に置いておきたかった本であったので、今回の出会いに感涙。
さらにまだ陳列されていない中に、ソンタグの本が並んであったのでその中の『土星の徴しの下に』も買うことができた。


高田馬場から、山の手線で乗り換えて行きは総武線に乗って水道橋へ向かった。
いつも見ていた窓からの風景は、やはり変わらず美しかった。
特にちょうど信濃町から四谷へ向かう途中に見える、なだらかな丘陵に沿って並ぶ青山や六本木方面のビルの群々には、やはり東京の郷愁を感じずにはいられない。
このまま乗って、千葉へ‥‥。
3月に入って、春の香りとともに、なぜか稲毛と、そして西千葉の郷愁がイメージとして頭から離れない。


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カトリック神田教会

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博報堂旧本社ファサード


水道橋から神保町へ向かう途中の、猿楽町に拠点する古ぼけた印刷所の数々。
右から左へ、時代を逆流するかのように文字を泳がす研数学館。
路地裏に人知れず潜む、聖なる隠れ家カトリック神田教会。
まるで仮面の両義性、真実を覆い隠しているかにも見える博報堂旧本社のファサード。
時間の剥奪した、穴の点在する、不統一な街としての、神田神保町‥‥。


                          
                          ◇◇



コミュニケーションに遅れている。言葉がピラミッドの形をしていて、一段ずつ確実にゆっくりと頂点へと目指していくものだとするのなら、僕はいつもその間の段階を捨象して、手っ取り早い了解のみを求めている。内田樹が指摘するような、量と質が均等に換算されないとすまない現代の若者‥‥。
引越しが落ち着いてからのこの一ヶ月、いや、むしろそれよりずっと以前から、自分は自分が損をすることのないようで、それでいて何かしらの利益を受け取ることのできるような、労を介さない享受ばかりを追い求めている。周囲を凝っと観察し、厄介ごとの起こりそうだと予想される人やモノからはなるだけ身を引いて、ただ損することが降りかからないことをのみ願っている。公園や、図書館、プラスマイナスゼロの、向上していかない、時間だけがただ無慈悲に進んで行く、生活のためだけの生活、自分が同性愛者であることすら忘れてしまう日々の慣習、下されない未来に対する決定‥‥。
村上春樹の、スピーチに対するネット上の論争も、ただただ唯物的なやり取りの徒労にしか思えてならない。文人の役目。人間の弱さと悲劇への、配慮と注視。エクリチュールと行為の矛盾。正しさの形而上学的な追究と批判、独学者の孤独、顔の見えない無限の他者たち‥‥。
緩慢として、もはや春にさえ乗り遅れている。

テーマ:雑記 - ジャンル:学問・文化・芸術

≪建築探訪≫ 九段下編

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建物名:遊就館
設計者:伊藤忠太、内藤太郎、柳井平八
竣工:1931年

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建物名:九段教会
設計者:田淵諭+大岡山建築設計研究所
竣工:1994年

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建物名:昭和館
設計者:菊竹清訓
竣工:1999年

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建物名:九段会館
設計者:川本良一
竣工:1934年

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建物名:東京堂千代田ビルディング
設計者:日建設計
竣工:1977年

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建物名:日本武道館
設計者:山田守
竣工:1964年

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建物名:科学技術館
設計者:松下清夫、平山嵩
竣工:1964年

テーマ:建築デザイン - ジャンル:学問・文化・芸術

World's End Girlfriend 『We are the Massacre』




殺戮と狂宴

テーマ:音楽 - ジャンル:学問・文化・芸術

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プロフィール

  ゴモラ

Author:  ゴモラ
ゴモラです。
生物学的性別は男性、性自認も男性、性的指向も男性です。セクシャルマイノリティ、世間一般でいうところのゲイです。
昨年の3月に千葉の大学を卒業しました。現在はクレジットカード会社に勤務しています。
とりあえず当面の目標は、確実な進路先を見つけることでしょうか。

 

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